January 6, 2024

私にとっての PERFECT DAYS とは?

 


久しぶりの映画レビュー。人生礼賛の映画。
渋谷で観た。鑑賞後とても爽やかな気持ちで街に出た。

ヴィム・ヴェンダースの手にかかると、東京が一瞬でヨーロッパ映画の舞台に。
巨匠が描くひとつひとつの絵に惚れ惚れ。音楽も格好よかった。
東京に住んでいることに幸せを感じるとともに、少し誇らしくなった。

いろいろな記号が出てきて、思わず解釈しようとするよこしまな自分を諫めながら、ただスクリーンを見つめた
渋谷のトイレ、浅草の飲み屋
木漏れ日、読書灯
黒塗り レクサス、軽バン ダイハツ
商業広告、芸術映画
今度、いま

意味とか目的とかなんにも考える必要はない。ヴェンダースの絵と音楽を浴びることができた、それだけで幸せな一日だった。

January 2, 2024

ここがヘンだよ中学受験 [後編:中学受験の功罪]

中学受験体験記の後編です。前回は「どうしてこんなにも中学受験が過熱しているのか?」について書きました。

親子ともに初めての体験だったので、順風満帆なわけもなく、多くの失敗、波乱、後悔もあり、七転八倒しながらなんとか小学6年生の正月までたどり着きました。受験本番はこれからですが、その合否結果を待つまでもなく、自ら経験してみてよく分かったことがあります。中学受験の功罪、すなわち中受で得たものと失ったものです。


【功】得たもの

① 家族の絆の強化

ここまで家族がひとつのことに向かって一致団結したことは、これまでありませんでした。目標達成の為、本人の勉強集中を妨げる要素はできるだけ家族生活の中から排除しました。
大好きだった旅行を諦め、習い事も辞め、週末にどこか出かけるでもなく家で宿題をやり、父母も極力外での飲みは入れないようにしました。親によるサポート面においては、志望校選定から出願に至るまでの支援はもちろん、朝晩と子どもが宿題をやったかどうかの確認、テストの振り返り、弱点単元の特定&対策と、できる(と思われる)ことは全てやってきました。

何者かに憑りつかれたかのように邁進する一団の空気を察してなのか、そっとしておいてあげようという配慮なのか、親戚一同にも気を使わせてしまいました。
おじいちゃん、おばあちゃんが家に遊びに来たり、旅行に誘ったりすることもなくなり、集中環境を作ることに親族皆で陰ながら協力してくれました。
まさに家族一丸となって、みんなで山の頂上を目指すことは、子どもがまだ親の言うことを聞いてくれるこの時期にしかできない、とても貴重な経験でした。
算数・理科を教えたがる父と、親には指図されたくない子どもがぶつかったことは数え切れません。
「なら、もう絶対教えてやらん!」という決裂宣言が、個別指導塾の追加課金の引き金となったことは、今となっては楽しい思い出です。

中学受験は親子受験。親もいろいろと、試されてるなぁ、と感じる場面はたくさんありました。
耐え忍ぶ、信じる、感情を抑える、言葉を飲み込む、演じる・・・

そんな中学受験もあと約1か月で終わりを迎えます。
決して優秀でも、右肩上がりでも、順風満帆でもないここまでの道程、あんだけ「ほんま、早く終わってくれー」、と懇願してた受験生活ですが、ここまでくると、もはや、名残惜しさすら覚えてきます。
ずーと雲で隠れて見えなかった山の頂がようやく見えかけた、という感覚かもしれません。

我が家の場合は、親の至らなさを補って余る程の子どもの楽観的な性格に助けられた部分が大きく、脱落することなくここまで来ることができました。
お陰様で、受験というイベントが家族の絆を強くしてくれたという実感を持つことができました。精神的にまだ未成熟な子どもが主人公の中学受験は、子もそうですし親にとっても、合う合わないがあるので無理強いをすると場合によっては親子関係を崩してしまうこともあるので、道中、子どもの様子(と親自らの心身状態)をよくよく観察することが必要です。

② 本気の成功(失敗)体験の早期経験

全ての子どもにとって、泣いても笑っても中学受験は2月の上旬で終わります。中学受験、成功したのか失敗だったのかというのは、単に第一志望校に受かったか落ちたかではありません。たとえ滑り止めの第4、5志望校の合格のみで受験が終わったとしても、結果、大成功!となる場合があります。
そのご縁を頂けた学校に楽しく通い、遠い将来「この学校で学べてよかった!」と本人が思えることが出来れば万事OKです。どの学校に受かって、どの学校に落ちたかというのは受験の成否をはかる絶対的な尺度ではありません。

受験結果のいかんに関わらず、受験の成否を言いきれることがひとつあります。
途中で諦めることなくやり切ったかどうかです。すなわち、悔いを残さず全力で目標に向かって取り組むことが出来たかどうかです。

途中でさじを投げて「やーめたー」となってしまわずに、もがいてでも這いつくばってでも歩みを止めることなく、2月1日受験の朝、目標とする学校の門をくぐる。
行きたいと思った学校までたどり着き、その門をくぐることが出来たら、それだけで優勝なのです!

受験には白か黒かという分かりやすい結果が付いてくるので、結果とプロセスの重要性を誤解しやすいのですが、受験の成否は結果ではなく”プロセス圧勝”です。

人生わずか12年しか経験の無い本人としては、一歩引いてそのように受け取れないことも多いかもしれません。
でも合否結果は、あくまでその長い旅路の最後に付いてくる”おまけ”に過ぎません。合格・不合格という結果は、努力が実を結ばなかった悔しい思いと共に流す涙かもしれないし、逆に、神様がその行程の全てを見てくれていた喜びの笑顔かもしれません。
長い道中、投げ出さず、脱落せずに最後までやり切った経験は、その”おまけ”はどっちになるにせよ、12歳の子どもにとってこれまで手にしたことの無い大きなプレゼントになるのです。
長い人生の中でこれから何度も出くわすであろう”山”を目の前にした時に、怯むことなく立ち向かう力になるのです。

本気で力を尽くした過程の”おまけ”としてもたらされる涙と笑顔は、これまでの生涯で最も大きなプレゼントであり、本人の人生にとって代えがたい財産になります。本気で取り組んだ者にしか得られないプレゼント。人生の推進力となるそんな素敵な贈り物がもらえる受験体験。そりゃ、早いに越したことはありません。

【罪】失ったもの

③ 価値観の画一化

受験も後半、6年生ともなると毎月のように合格判定模試があります。(未熟な我が家は、親も子も)結果の偏差値を見て一喜一憂しちゃうことが多かったです。できなかった時は凹み、「もうヤダー」「受けないっ!」。できた時は「余裕じゃん」「これなら余裕で受かるっしょ!」。毎月大きく上下する偏差値に振り回され続けてきました。

自分の能力を表すひとつの代表値である偏差値。この数字が強力な曲者なのです。
偏差値は、ぱっと見、分かりやすいが故にとっても強力で、本来個性豊かな子どもを強制的に一列に整列させてその序列をつけちゃうし、数多ある特色豊かな中学校をも一列に強制整列させて、一元的モノサシの上に並べちゃう、とっても曲者なのです。

言わずもがな、偏差値はあくまで、「国算社理の筆記試験において受験者母集団中、自分が取った得点の相対的位置を示す」にすぎません。周りの受験者が筆記試験ができる子ばかりであれば、当然偏差値は低く出ます。
また偏差値は学校を比べる時にも持ち出されます。偏差値というモノサシを学校に当てることは、「その学校に通う生徒達が筆記試験においてどれくらいできたのかというたったひとつの側面で学校を評価する」にすぎないことです。

そんなの当たり前でしょ、なんだけど、盲目的に猪突猛進していると、その偏った見方が脳内を支配しちゃうんです。大人だってそうなんだから、いわんや子どもをや、です。

その分かりやすさから、偏差値はあたかも本当にその人や学校を代表する値のように錯覚させてしまう力があります。また別の副作用として、偏差値信仰主義が過ぎると、「偏差値は自分の努力に対する評価だ」と勘違いさせる力もあります。

「夏休み昼夜問わず毎日あれだけ勉強頑張ったのに9月の模試で偏差値が下がった、もうダメポ。。」

そんな時は一日おくことで、周りと比べた自分を一旦忘れる。心を落ち着かせた後、自分の答案用紙の中身に向き合うようにしました。
問題・答案の内容、回答のプロセスを改めてつぶさに観察し、「何が出来なくて、何はできたのか?」、「できなかったのは、何が原因で、今後どうすればいいのか?」を、子どもに細かに説明していきました。(その結果、家塾を開講、個別指導塾を導入し、オンライン家庭教師を追加し、週7日勉強体制に行きついてしまったのですが笑)

それでもやっぱり、相対的位置を分かりやすく表す偏差値の魔力は強大で、子どももそれを通して世界を見る癖がついてしまった部分は否めません。

「同じクラスのxx君が、高偏差値のxx学校を受けるみたい」っていう話を耳にしたり、インターネットやテレビで中学校を目にすると、いの一番に「あの中学校って偏差値どのくらいなの?」と聞いてくるようになりました。

中学受験は良くも悪くも「筆記試験の点数という、それ以外の力が働きにくい世界での勝負」です。白黒つけることが出来ないものが多くを占める実社会とは異なる特殊なゲームの世界です。
中学受験塾では当たり前のように毎週のテスト結果で塾の席順が入れ替わります。(先週のテストが一番出来た生徒が最前列のセンターをゲットできる仕組み)そんな世界を3年間経験してきて特殊な価値観が頭にこびりついちゃうのは覚悟の上でしたが、そこは諦めました。

クラスメイトや先生など多様性に富んだ私立中高一貫校における生活で、そのゆがんだ価値観が矯正されることを願います。後天的でいいので、12歳のあの当時は奇妙なゲームに身を投じていた、っていうことに気付いて欲しいし、世界の奥行きや広がりを感じられるような、心の余裕と時間の余裕を持てる6年間を過ごして欲しいと思います。

④ 遊びの欠如

我が子は受験の為、好きで続けてきた英語塾を中断しました。友達と公園で遊ぶことも、家で皆集まってゲームをやることも、旅行も帰省もほとんどご法度でした。
親も親で、始めた当初は、「うちは、ゆる受験だから~」とか言ってたんですが、一度レールに乗ったが最後、ブレーキをかけることはできず、突き進んできました。

身体的な遊びを失っただけでなく、子ども自身の精神的な遊びも奪ってしまった受験生活でした。塾では、全て来塾・帰塾がIC端末でトラッキングされ、その情報が親のスマホに飛んでくる仕組みになっています。本人にその意識があるのかないのか??だけど、我が子に常に首輪を付けたような生活でした。
また、苦手な教科・単元、どの教科をどんな手段で強化し補習すべきかということに子どもだけでは解決策を見出せません。塾の先生が導くこともあれば、親が手探りでネットで調べてオンライン家庭教師を見つけたり等、打ち手を考える必要があります。
詰め過ぎないよう、空き過ぎないよう子どもの様子を見ながらスケジュールを組んできました。その結果、ラストスパート時期である今、我が子は週7日、6:30~21:00過ぎまで勉強という、時間的にも精神的にも全く”遊び”が無い生活を送っています。

「終わらない受験は無い」「たかが2、3年」と言ったりしますが、長い人生の中でそんな時期があってもいいと思えるのは、長く生きてきた大人の視点であり、当の子どもはそうは捉えられません。
「なんで普通の小学生は遊んでるのに、自分はこんなに勉強しなきゃならないの?」って思うのはとても自然なことで、子どもの純真無垢な思いも分かるだけに、それをどうやって上手く手なづけ気持ちを乗せるのか、にはとても悩み苦戦しました。

開成や桜蔭などに行く子達は、空気を吸うように勉強をし、難問に挑むのが楽しくてしょうがないような、勉強=遊びの子だそうです。そうでない我が子にとっての遊びは、かつての英語だったかもしれません。小学生時代に彼からその遊びを奪ってしまった罪は重かったのでしょうか?

⑤ 自ら考える機会の剥奪

我が子にどんな人になって欲しいか、ともし問われたら、「自ら考える人」になって欲しいと答えます。
その一つの題材としての中学受験でもあったのですが、我が家の場合は決して成功とは言えませんでした。
ここで言う”考える”の対象は二つあります。ひとつは「目標達成のために自分がやるべきこと」、もうひとつは「学問として人文・社会学、数理・自然科学を学ぶこと」です。

ひとつ目の、目標達成のために自分が何をすべきか自ら考える、って大人にとってもなかなか深いお題ですよね。

中学受験の先達は言います。本当に伸びる子は親に言われたりやらされるのではなく、「自ら自発的に勉強をする」と。
我が家の場合は、(算数以外は)最後までその域に達することはありませんでした。
「やる気スイッチ」なるものが子どもの体のどこかにあって、きっといつかONになる時がくる!と思い続けてきましたが、ある出来事をきっかけに明確にある瞬間に自ら机に向かい出した、ということはありませんでした。
そんな感じで、のらりくらりだったので若干痺れを切らし、
「自立を促す」ということを二の次にしてでも、「やるべきことを実行する(させる)」方を優先してしまいました。かなりの部分、お膳立てしてきちゃいました。

週ごとに時間割を作成、毎朝その日の課題・過去問等について、「テキストの何~何ページ」、「丸付けも」と細かに指示をダイニングテーブルの一番見えるところに書きました。夜その「やることリスト」がどれくらい消化できたか、ノートをチェックします。どの単元の間違いが多いのか、その間違いが単純ミスなのか、理解不足なのか、知識忘却なのか。解いた内容を細かく確認していきます。日々の課題内容や毎週の試験結果に基づき、翌週のメニューを決めていくということを、6年生の7月末以降毎週繰り返してきました。
(自分自身、管理業務は嫌いじゃないけど)さすがに超が付くほどのマイクロマネジメントっぷりに、これでいいのか??と不安がよぎったことも正直ありました。

「勉強をしなさい!」って言ったことはありません。
そのかわり、
「合格判定模試 算数の計算と一行題の間違った問題をノートに、途中式もちゃんと書いて解き直しなさい!」
「理科メモリーチェックの2周目、間違った問題で残っているのを、今日中に最後までノートに解いて、丸付けまでしなさい!」
というようなことを毎日のように言って、紙に書き付けてきました。
「勉強、何したらいいの?」という言葉を一切口に出させない為に、明文化して子どもに直接指示を出してきました。

問題の難易度や課題の総量については、気を付けてコントロールしたからなのか、それとも単に我が子の思考回路を断線しちゃったからなのか、「やりたくない!」とか「こんなのやっても意味ないよ!」というボイコットを受けることはそれほどありませんでした。
それが逆に気持ち悪かったです。
疑いの目すら持たず言われるがままに、考えることなく人に言われたことを鵜呑みにするような思考を強化しちゃったんじゃないのか?と。

中学受験くらいの壁であれば、親伴走で乗り越えられるかもしれません。でもここから先の長い人生、大小さまざまな壁を乗り越えるには、もうひと成長する必要があります。我が子の今回の中学受験に関しては、その課題は先送りとなりました。

ふたつ目の、「学問として、問いに思索し、学ぶこと」についても、正直そんなこと言ってられる余裕はありませでした。

知らなかったことを知ることで、知識の点と点が線になる。社会の仕組みや自然摂理が垣間見えた瞬間の喜び、未知の世界を発見することの楽しさ、「学ぶ」ということの本当の魅力。中学受験を通じてその喜びや学びの持つ力の片鱗だけでも感じてもらえれば、とも思ったんですが、中学受験の目標(=入試本番で合格最低点を上回る)を強く意識すればするほど、回り道に感じられ、いかに効率よく点数を重ねられるかというゲームに集中することを選ばざるを得ませんでした。余裕なかったす。

ちょいと脱線ですが、小学校の算数が中学以降の数学と違うところは、「抽象化に逃げない」という点。日々の生活の中で具体的にイメージできる実数の世界で、できるだけ記号化(xとかπとか)を避けて、実用的な計算で答えを導きます。抽象の世界に行ってしまう前に、しっかりと小学生時代に具体の世界を味わい、理解を深めることは、その先ものごとを多面的に捉える力を付ける上でとても大切な土台になります。
例えば、算数の数列の単元だと、フィボナッチ数列も題材として出てくるのですが、なぜその数の並びが特別で、神秘的で、自然に内包されているのか?などについては、深く触れることなく素通りしました。

受験直前期のことです。社会の歴史やりたくない病が発生したことがありました。
「夏に、あれだけ時間をかけて歴史用語を頭に詰め込んだはずなのに、全部忘れちゃってて全くできない。あの全ての時間と努力は無駄だったんだよ!」
「こんなのやっても意味ないし!」
「社会に出て何の役に立つの!」
「こんなのGoogleで調べられるじゃん!」

言い返す言葉が見つかりませんでした。

そう、30年前。当時の自分そっくりだったから。社会という教科に対しては全く同じ思いを抱いていたからです。算数・数学についてはそんなことを思ったことはありませんでした。「積分できて何トクなの?」なんて、これっぽっちも思ったことないんです。社会とは正反対に。

人は根源的に学ぶことが好きな生き物です。生きるとほぼ同義くらいに学ぶという行為がある、と言っても良いと思います。「何のために学ぶの」じゃなくて、「学ぶために生きる」のです。

「学歴とか資格とか、将来の安心保障の為に今苦行を我慢して学習する」のではなく、
「学ぶことそれ自体が、世界を拡げてくれて、発見と喜びに満ちていて人生を豊かにしてくれる」のです。

そのような捉え方をすると、ひとつ大切なことに気づきます。我慢してする学習は本質的な学びじゃなく、心から楽しいと思えることに考えを巡らし、没頭することの方がよっぽど幸せ度が高く、そこから得られる喜びも大きくなります。

極端かもしれないけど、嫌いなことは学ばなくていい。好きなことをとことん突き詰めて欲しい。心からそう思います。
30年前と違うことがあるとすれば、今の時代はインターネット世界であり、AI世界であり、自分が嫌いなことを替わりに担ってくれるツールが周りに溢れる時代になってきました。テクノロジーの進化により、人は自分が最もモチベーション高く没頭できる領域にリソースを集中すればいい。そんな環境はより加速していくでしょう。

好きを見つけよう。好きに没頭しよう。


***
中学受験。得たものもあったけど、犠牲にしたことも多くあったと思います。
多感な時期、失敗、後悔、親の不徳・至らなさばかりで、ゆがんだ3年間を強いてしまいました。

でも、ゴールでありスタートである春はもう少し。

春のその先には、未だ見ぬワクワクする6年間が待っているよ。
さあ、一緒にラストスパートだ!

December 29, 2023

ここがヘンだよ中学受験 [前編:中受過熱の背景]

なんだかんだ、一年でまとまった時間を取れるのがこのタイミングだけで、3年連続で年末専門ブロガーとなってしまいました。。
今年最も身を捧げた「中学受験」について、初めての経験でとっても面白かったので、好き勝手、2回に渡り書き記しておきたいと思います。(まだ終わってないけどw)

***

今、中学受験がかつてないほど過熱しています。

我が子にはそんなレールを敷くのはやだなー、と思っていながら、まんまと我が家もその大きな渦に飲み込まれること、この2年半。
私立中高一貫校への通行手形をゲットするために、家族総出でほんとうに多くの時間と労力を費やしてきました。

その集大成である最終学年の6年生。
合格を目指すという一点を除いて、ほとんど全ての欲を封じた一年でした。
互いの実家への帰省はいっさい無し、家族旅行も夏休みに近場の1泊2日のみ、もちろんクリスマスも無ければお正月もありません。
一度レールに乗っかったが最後、途中下車という選択肢は無く突き進むしかありません。
心を無にして、まさに家族一丸、盲目的に突き進んできました。(まもなく迫るゴールに向けて今も現在進行形ですが。。)

人生100年時代、生まれてまだ12年しか経っていないひよっこの子どもが疑うことなく、週7日間、通塾や家庭教師など、朝から晩まで、受験勉強漬けの毎日を送ってます。

朝6時半に起きるやいなやZoomで朝授業。学校から帰宅後、個別指導塾に行き過去問解いてその解説を受ける。そこから別の集団塾に通い補習も含め21時過ぎまで授業。家に帰って速飯。シャワー&就寝。
概ねそんなスケジュールを夏休みから、ほぼ毎日繰り返しています。

昭和生まれで、田舎育ちの自分にとっては想像もできなかった、父として迎えた、中学受験という名の監獄生活の一年でした。

今日は、なんでこんなにも人生で一番遊ぶべき小学生時代に受験に必死にならなきゃいけないのか?という中受過熱の背景について書きたいと思います。(自ら体感した中受の功罪については、次回

【中学受験どーしてこんなになっちゃってるの?】 

バブルさながら加熱する中学受験

首都圏模試センター発表の統計によると、首都圏の中学受験者数は2014年を境に上昇し、2015年から2023年にかけて増加の一途で、過去最多を絶賛更新中です。
(今年の大手塾の模試状況から察するに、今年はもしかしたら一服するかもしれませんが。だいたい、マンガになってドラマにまでなると、流行はピークアウトするってのもまた真ですがw)

(特に首都圏において)中学受験が過熱してきた背景として良く上げられる理由が、

1.大学入試改革・大学入試定員厳格化
2.中学受験熱の高い都心部の児童数の増加
3.コロナ禍→オンライン対応の公私格差
4.中学受験に親近感を抱く保護者の増加

だったりします。

出展:YouTube PIVOT公式チャンネル

とはいっても、どの理由も中学受験の長期的増加を説明するには不十分な気がします。
もっと大きな時間軸の、何か別の社会的変化が背景にある気がします。
女性の社会進出、少子化、核家族化などの社会や家族の構造変化がその大きなトレンドの遠因ではないのかと。平成の時代になり、以前より家を出る女性が増え、その社会進出と共に、子育てスタイルも昔の”母ちゃんワンオペ”から、”夫婦ともに育て、共に働く”時代に大きくシフトしてきました。

また、自分の小学生時代は放課後の遊びといったら、学校で友達と口約束をし、家にランドセルを置いて、皆で公園に集合して草野球をやったり、友達と裏山でターザンごっこをやったり、ファミコンが誕生した時代だったので、天気が悪いと友達の家に行って、同じ空間で一緒にテレビゲームをやる、みたいな「リアルな友達と物理的空間を共有する遊び」をしていました。

でも今は、その当時とは全く異なる放課後時間・空間が広がります。

子どもは学校から帰り、家のテレビをつけるやいなや、好きなユーチューバーの配信動画を釘居るように見続ける。また、家のソファーで任天堂スイッチを片手にヘッドフォンに包まれ、オンラインゲーム上で、独り言のようにブツブツ喋りながら見ず知らずの人とチーム編成をして、闘いを繰り広げています。

日中家に親はいず、友達と、外で顔を合わせて遊ぶこともほとんどありません。バーチャル世界で友達ができて、そこで遊んでいる子がいたりします。

毎日学校で顔を合わせる友達たちは、小学校3年生の2月を境に、次第に塾に通うようになり、学年が進むごとに、一緒の遊び相手も減っていきます。周りのみんなが塾に通い始めて、自分の居場所がなくなったと感じて、止む無く塾に通う子もとても多いです。

かつてのお母ちゃんが、OLになり、キャリアウーマンに変遷していったのと同時に、母や父の家族としての顔が、仕事領域に食い込んでいくようになりました。親が「社会(働き)に出る」ことは「家(子と過ごす時間・空間)を出る」という側面もあります。また、そんな社会と家との境界は、時代と共に曖昧になり、融合してきています。
そんな、大きな社会変化が起こったのが、この40~50年でした。(現在進行形です)

その大きなうねりに飲み込まれ、子どもも幼少期の遊びの期間・空間・同士を徐々に失い、まだ未成熟で多感な時期に、子供を将来養成塾に送り込む。貴重な幼少期を将来のための武装訓練に費やすという、田舎の昭和人間である私にはにわかに信じがたいことが起こっています。(それはまるで戦時中、お国のためにと、国民学校で軍事訓練を強いられていた子どものように)

こんな家族形態、働き方の変化はもはや誰も止めることは出来ず、それが続く限り、人生の若い段階での矯正訓練のトレンドを止めることはできないのでしょう。

しかたない。
我が子はそんな世の中に生を受けてしまったのだから。

小学4年生の春。子どもが大好きだった英語の塾を辞めるべきかどうか、本当に悩みました。
でも、しかたない。

その波からは逃れることはできないので、大いに家族で乗っかり、体験しようと、家族みんなで腹をくくりました。後ろ髪惹かれる中、我が子は英語塾を辞め、中学受験専門塾に通う決断をしました。

その決断が正しかったのか間違っていたのかは、分かりません。

でもここまでの体験から、明らかに分かったことがひとつあります。それは合否が出るまでもなく言い切ることができます。

中学受験を通じて何を得て、何を失ったのか。

(多くは親の経験不足と至らなさで、反省ばっかなのですが。。)

次回は、これから同じような決断を迫られるご家族に少しは役に立ててもらえればとの思いで、我が家の恥ずかしい体験談も含め、中学受験の功罪について書きます。

December 31, 2022

ウェルスナビで考える、次世代金融インフラの在り方

今年は、仕事の一年だったこともあり、またしても一年間ブログの更新を怠りました。。来年はもうちょっと書きたいと思います。

せめて年末滑り込みの投稿ということで、今回はロボアドバイザー「ウェルスナビ WealthNavi」についてです。

個人的には、自分で調べて自分で資産管理するのが好きなので、手を出していませんでしたが、今回、知人が転職をしたことをきっかけに、ウェルスナビを始めてみました。

全自動資産運用と名乗るだけあって、情報開示にはこだわりを感じます。特に、預けたお金がどのように運用されているかの運用結果や手数料だけでなく、その運用ロジック部分も丁寧に解説してくれている「資産運用アルゴリズム」なるWhite PaperがHPに掲載されていてとても秀逸だったので紹介したいと思います。


1. ネーミングって大事だよね

「ロボアドバイザー」っていうと、自らの虎の子のお金を得体の知れないコンピューターに預けて、任せる、みたいな、ちょっとしたうさん臭さすら感じたりするけど、ウェルスナビの資産運用の中身は確固たる経済理論に基づいたきわめて堅実な資産運用です。MBAでも必修科目であるファイナンスの基礎で習う現代金融理論(Modern Portfolio Theory)に基づいた長期国際分散投資をベースとしていて、投資のバイブルとされる「ウォール街のランダム・ウォーカー」をそのまま具現化したような投資手法です。

ウェルスナビのサイトとかを見ると「ロボアドバイザー」ではなく「全自動資産運用」って呼ぼう的な意図を感じます。(マーケットシェア的にはロボアドバイザーでくくられるので、その文脈ではロボアドNo.1として出てきます)

「全自動資産運用」って響き、「全自動洗濯機」を彷彿とさせるなぁ。洗濯機が三種の神器として戦後復興の象徴だったように、ウェルスナビも貯蓄から投資への変化のきっかけになれるのでしょうか? でも「全自動資産運用」って、堅いなぁ。シングルプロダクトであるがゆえに、そのサービスを端的に一言で表すもうちょっとなじみやすい呼称があるといいな、と思ったりします。CMやYouTube広告でも多く露出してるので、堅実さ、誠実さがあって、でもとっつきやすい誰にでもわかる呼び名を連呼する、とか。マス広告は機能よりも印象、ブランディング浸透にもっと振ってもいい気がします。


2. 投資内容は?

投資の中身はいたってシンプル。複雑さを極力排除しようという意思すら感じます。世界の基軸通貨であるドル建てETFによる市場全体へのインデックス投資。ロジックの精緻さよりも分かりやすさ、腹落ち感を重視した投資内容はとても好感が持てます。それぞれのユーザーのリスク許容度をシンプルに5段階評価。預けるお金の行き先は7つの資産クラスに分類。興味深いのは、債券クラスにインフレヘッジのための物価連動債を含めています。(物価連動債はリスク許容度が低い人のポートフォリオにのみ組み込まれるので、実際は、株・債券・金・不動産について世界分散投資をするきわめて教科書的な構成です)

投資対象の銘柄も超シンプル。選定基準も開示されていて、

・インデックス投資

・純資産総額が大きい

・流動性が高い

・法令上届け出がされている

・低コスト

のETFです。

それぞれの資産クラスについて銘柄を一つに絞っているのもシンプルでいいです。

金はコスト面から新たにIAUが選ばれているので、State Streetがなくなり、いよいよ2社に絞られてしまいました。株式ETFはすべてVanguard、その他の債券、コモディティはBlackRock。リスク許容度が一番高い5の場合は、資産の85%は株式なので、ほぼVanguardのポートフォリオが出来上がります。

ここで、リスク許容度が高い人にとっては、じゃあVanguard直接買えばいいんじゃないの?って思っちゃいますね(それだけでも年0.5%はパフォーマンス上がるし)

ウェルスナビは誰向けなのでしょう?


3. ポジショニング&ターゲティング

そうなんです。そもそも、もっとリスクを取りたい人とか、自分で海外ETFを買おうとするような人はウェルスナビとは親和性が低いのかもしれません。ウェルスナビのミッションにもある「働く世代に豊かさを」。サイトのいたるところに出てくるのが、「働く世代」っていうキーワード。



決算説明資料においても20-50代がボリュームゾーン、まさに働き盛りで、仕事、家庭、プライベートで忙しい時期の人々がターゲット。時間はないけどお金は眠ってるような人が想像できます。日々市場をウォッチする暇なんかなく、かといって銀行にお金を眠らせておくのももったいないと思うような、資産運用マニアでもなく金融・経済不感症でもない「お金のことはちょっと気になるけど、面倒なことはしたくない」人をターゲットしているかんじです。

ウェルスナビが提供するプロダクトは、アクティブ投資でないので、差別化が図りにくく、かつ、ウェルスナビは他の金融・証券会社が狙うマスターゲットである高齢富裕層でもない、そこまで多くない働き盛り世代を主軸に据えています。

そんなこれからの日本を支えるガンバる世代を支える金融インフラに育ってほしいというエールを込めて以下結びたいと思います。


金融とか個人とかを超えて、顧客の立場から真の全体最適を支援するインフラになってほしいと思います。個人といっても、人にはいろんな顔があるし、人生お金だけじゃなく大切なアセットは山ほどあります。現状のウェルスナビの思想は、全ての資産をウェルスナビでカバーし、その中において最適化する設計になっているので、ウェルスナビの中だけで見れば、リスク・リターンの効率性としてはベストかもしれません。

でも、現実的には誰しも銀行預金があったり、家のローンがある人とか、貯蓄型保険に入っ(ちゃっ)てる人もいるわけで、もうちょっとややこしい中で生きてます。さらには経済的資本だけでなく、人的資本とか無形資産も含めてその人のライフステージに応じた人生のバランスを考えた方がいいので、“自分のところだけで最適化”でなく、“ユーザーの人生全体を最適化するための一つの部品”を提供しますよ、っていうスタンスの方が、本当に人に寄り添ったサービスじゃないかなと思います。

経済的資本のコアを担うポジションで行くのであれば、ウェルスナビとしてはインデックスで勝負なので煎じ詰めると、いかに経費率を下げて、顧客の長期的パフォーマンス向上にその取り分を分配してあげるかが問われます。模範となるロイヤルカスタマーを上手く選んでその人の経費率を下げる仕組みを導入する。(長期割をもっと手厚くするとか、預かり資産に応じて経費率をディスカウントするとか)

また、同時に、ユーザーが真に実現すべき“人生全体最適化”を後押しするような、経済的資本の外に目を向けさせる啓蒙活動に力を入れる。例えば、新社会人に対して、経済勉強のちょっとの投資と、その後の職業人生を豊かにするコネへの投資としての交際費活用術とか。子育て離れで時間ができ始めた人へのリスキリング投資の促進とか。

お金についてはちょっと手数料頂戴するけどウェルスナビに任せてもらって、浮いた時間をお金以外の大切なことに向けてもらえるように、ユーザーを啓蒙していく。ウェルスナビ自身も事業のスコープを広げていくことが大切なんじゃないかな。ウェルスナビっていう名前の認知がある程度取れたら、次はコンテンツ。CM以外にもそういう啓蒙セミナーとかオウンドメディアとか充実させて、貯蓄から投資の真の意義を世に広めていくような活動。


サービス開始から6年。経営も黒字化し、これからビジネス規模、利益が求められていく中で、決算発表で今後の展開としてこんな図が示されていました。

様々な金融サービスが総花的に周囲を囲んでいる、顧客の財布のひもを握っちゃうぞ!的なプラットフォーム思想には若干の違和感を感じます。

ネットの世界でWeb2へのアンチテーゼからWeb3への流れが生まれているのと同様で、金融においても、真ん中にどんと居座って全て自分のところで丸抱えするのでなく、自らの立ち位置を研ぎ澄まし、謙虚さを持ってわきまえながら顧客に寄り添うスタンスが今時じゃないかな。"ロボ"でなく本当の意味での"あなたのアドバイザー"になってほしいとの思いで、自らの虎の子を少しだけ預けてみようと思います。

December 31, 2021

社会的開拓者(Social Pioneer)のための栄養ドリンク LIFE SHIFT2(ライフ・シフト2)

前著「LIFE SHIFT」から5年。

その間、平成の時代が終わり令和が幕開けをし、誰も予期しなかった新型コロナウイルス感染症によるパンデミックが世界を一変しました。

前著が言っていた変わるべき時っていうのは、遠い未来の話ではなく、差し迫った今の話だと実感させられた本当に大きな変化が訪れた5年間でした。

続編「LIFE SHIFT2」は、そんな変化激しいこれからの時代、人間として開花する(長寿化と技術進歩を敵に回すのではなく味方につける)ためにはどんな行動をとるべきか教えてくれます。多くの研究や論文の裏付けを元に、不透明な未来を明るく照らし、人生100年時代を生きる活力を与えてくれる栄養ドリンクのような本でした。

本書は、いくつかの新しい視点を与えてくれました:

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①お金よりも大切にしたいアセット
長寿化の時代ではほんとうは長く働く必要があるのに、昨今巷では、FIRE(Financial Indipendence, Retire Early)が流行っている。が、皮肉にも、経済的独立っていう概念そのものがお金に縛られている考え方なんだよなぁ。

ダライ・ラマ14世はこう述べた。
「人は金を稼ぐために健康を犠牲にし、健康を取り戻すために金を犠牲にする。また、未来を心配しすぎるあまり、現在を楽しめない。その結果、現在を生きることも、未来を生きることもできないまま、真の意味で生きることがないまま死んでいく。」

100年時代を生きていくのに、お金は必要なものではあるが、お金と幸せは無関係である。幸福度により影響を与えるのは「温かい人間関係」である。

金銭面で未来の自分を苦境に立たせるのは避けたいが、それと同じくらい、学びの時間、移行を成功させる活力、健康、人間関係などを欠いた色褪せた人生を送ることも避けたい。

②年齢の捉え方
年齢に対する考え方を改める。

産まれてから何年経ったかという「暦年齢」ではなく、今の高齢者はこれまでになく若いという"年齢のインフレ"を踏まえた「実質年齢」ベースで物事をとらえるべき。
 
例えば、生後40年経つ人同士を同じ暦年齢だからといってひとくくりにするくらいなら、(死生学的年齢が同じ)余命50年の人同士をセグメント化して考える方が、よっぽど的を得ている。

アメリカの老年従属人口指数(一人の高齢者を何人の現役世代で支えているかという指数)も、年齢インフレを調整してきちんと分析すると、若者負担は増えてきているのではなく、むしろ下がってきている。

また、社会保障についても、平均寿命を過少評価してしまう「ピリオド平均寿命」に基づくのではなく、医学の進歩による死亡率低下を考慮した「コーホート平均寿命」に基づき、ちゃんと長く生きることを踏まえて再設計すべき。

ミレニアル世代とかZ世代とか、世代に呼称がつけられ始めたのと、3ステージの人生モデルが形成されたのは同時期ということからも明らかだが、そんな世代のとらえ方はオワコンである。

ついつい「若い人たちは...」って言ってしまうが、Age Harassmentはもってのほかということも忘れず肝に銘じたい。

③企業の立ち位置
人の働き方の自由度が高まったことにより、企業は従業員との関係よりも、顧客・株主との関係を重視するようになってきてしまっている。。

仕事上の学びの機会(人材開発)においても、その責任は企業側から従業員側に移ってきている。

④新時代の学び
長寿化に伴い生涯学習が不可欠となる。人生序盤の教育は特定の知識・スキルの獲得よりも、ずっと学び続けられるための土台を作るべき。また、シンボルとしての学位の価値は下がっていく。

生涯に渡って学び続けることになるが、子供と大人における学習の大きな違いは、大人においては「学習獲得」よりも、過去の成功体験や染みついた慣習を捨てる「学習棄却」が大切になってくる。

また、AI等の技術発展が進む世界では、先端技術の知識をキャッチアップすることも大事だが、それよりも、良きコーチたる能力、人を焚きつける術、心身状態への気配り、傾聴力、ビジョン発信等の人間的スキルの方がより重要になる。

新時代の学びって、いずれも言うは易く行うは難しなことばかりである。
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マルチステージの人生を送っていくということは、数多くの岐路が待っている人生でもある。分岐点に立った時、大きな変化が訪れた時、将来の見通しに悩んだ時に、イキイキと人間らしい人生を歩んでいくためにも、この本に立ち戻りたいと思いました。


アンドリュー・スコット、リンダ・グラットン
LIFE SHIFT2(ライフ・シフト2)