February 6, 2026

AI時代に勝つ、曖昧さとダンスする実践的イノベーション教育

去年の9月から、仕事ではありますが個人的興味の元、大学の授業にメンターとして参加しました。

東京科学大学が毎年行うEngineering Design Project(通称EDP)という授業に、パートナー企業のいちメンバーとして参加しました。

EDPは東京科学大学が実施するPBL(Problem Based Learning)型プログラムで、「エンジニアリング × デザイン × 実社会の課題」を通じて、デザイン思考を実践的に学ぶ授業です。企業が提供するリアルな課題に対して、学生チームがユーザー調査・アイデア創出・試作・検証を繰り返し、世の中にない画期的な製品を作ることが最終ゴールです。


社内でメンター募集があった時、久しぶりに母校の空気を感じてみたい、今の大学生と触れ合ってみたいという軽い気持ちで手を挙げました。が、それは想像をはるかに超えた、産学連携教育の最前線を体感することができて、鮮烈な体験でした。


Source: EDP EDPについて https://www.edp.esd.i.isct.ac.jp/about


本質にスティックし、あいまいさとダンスする


実際に試行錯誤し、モノを生み出すのは学生達ですが、約5ヶ月間、悪戦苦闘する学生達を横目で見て時折応援する中で、得ることができた幾つかの大きな学びがあります。

ひとつは、本質をブラさず、同時にあいまいさを乗り越える考え方・マインドセットの大切さです。

私達企業が学生に与えたテーマは「飲食業におけるさらなる省力化・省人化を進めるプロダクトをデザインせよ」でした。既存の仕組みや先例など参考になるものもあまり無く(むしろ知ることが足かせにすらなる)まさに”答えのない問い”です。

そんな答えのないお題に取組まなくちゃいけない学生チームに、先生達が導いた方法は、「ユーザーインタビュー→ユーザーへの共感→問題定義・仮説作り→アイデア出し→プロトタイピング→テスト→発表」のサイクルを高速回転させる、デザイン思考アプローチでした。


Source: 大阪工業大学 ロボティクス&デザイン工学部 https://digitalpr.jp/r/77518


たった1~ 2週間でこの一連のサイクルを一回りさせる。それを何度も何度もぐるぐる回していく。
次々と製品アイデアをひねり出させて、ダメ出し・フィードバックを行うことをひたすら繰り返しました。プロトタイプ製作の最後1か月間を除いて、プログラム前段7-8割の時間はこのプロセスに費やしました。

あらかじめ最終ゴールをしっかりと定め、その目標に到達するためステップを分解して、マイルストーンを事前に計画し、進捗させていくような旧来のプロジェクト実行スタイルとは全く逆のアプローチに、私もそうですが生徒さんは大いに戸惑いました。

「このアイデアもダメかぁ。また、聞き込みからやり直し。。」
「何回繰り返したら道筋が見えてくるんだろう。。」

道中、先が見通せず不安になり、自信を失い、暗澹たる気持ちになった時期が、間違いなく全てのチームにありました。

学生チームのユーザーインタビューに同行


本プログラム11年目、経験豊富な先生達は、パートナー企業の私達にヒントを与えてくれていました。

これまでにない ”Aha!” となる画期的な製品を生み出すには「圧倒的なユーザー共感」と「テーマ、背景の深い理解に基づく問いをたてる力」が重要だということ。それらが無くしては、たとえ製品(プロトタイプ)の完成度が高かったとしても、それは単なる既定路線の延長であり、真のイノベーションにはならないということ、を事前に教えてくれていました。

圧倒的なユーザー共感を得るために学生チームは「我々のユーザーは誰?」「ユーザーは何をどう感じていて、何に困っている?」について、仮説を立てては、直接会って話を聞くということを、何度も何度も繰り返しました。話を聞くだけでは原落ちしないと気付いたチームは、実際にユーザーの業務、タスクを身体を動かして体験し、五感で感じて、まさにユーザーになりきって問題に向き合いました。

先生は言いました。「プロダクトの完成度ではなく、先にユーザー共感度を上げよ」と。
そのためにはインタビューの量と質は言うまでもなく、自分で身体を動かしてユーザーになりきることで課題・テーマに対する解像度が別の次元に上がる、ということを。下図で言う、上の図のような一直線のキレイな行程ではなく、下の図のように行ったり来たりしながらもまずはユーザーとの共感度を上げていく。

Source: 2025年9月12日東京科学大学EDP(Engineering Design Project)産学デザインフロンティアコンソーシアムキックオフ資料


何度も問題を定義しインタビューを繰り返していると、たとえチーム一体となって取り組んでいても、チーム全体があらぬ方向にアイデアが進んでしまうことも数多くありました。

「これって本当に省力化になってるの?」
「これが本当に飲食業スタッフの困りごとなの?」
「これって誰の為?誰得なの?」

チームが、そんなフィードバックを受けたことは数知れず。
表層的なインタビューでの発言につられて、ついつい与えられたテーマとは関連の薄い方向にチーム全体が引っ張られてしまったり。答えのないテーマに取り組む難しさを目の当たりにしました。

隔週で行われるアイデア発表とフィードバック


そんな難度の高い課題において重要だったのは、「テーマ・背景を深く理解し、本質にスティックして良質な問いをたてる力」でした。
今回の授業でも多くのチームが路頭に迷いました。ユーザー共感を高めれば高めるほどテーマへの理解は深まるのですが、それだけだとあらぬ方向に行ってしまう。元々の課題を忘れたり、本当の顧客からずれたり。大切なのは必ず頭の片隅に本質(主題)を置いておく。それをアンカーにしつつ右往左往する。

この授業、スタンフォード大学のLarry Leifer教授のME310という大学院生向けの授業やd.schoolというスタンフォード大学のデザインプログラムが起源だそうです。EDPを一冊にまとめた本「エンジニアのためのデザイン思考入門」に、このプログラムの成り立ちが詳しく説明されています。


その教育プログラムを日本の大学に合う形で東京科学大学に持ち込んだのがEDPプログラムです。そのLeifer教授が、プログラムの中で合言葉のように繰り返していたのが、「あいまいさとダンスする -Dance with ambiguity-」という標語だったそうです。曖昧さの中からアイデアを紡ぎ出す行為をダンスに喩えていて、上手い表現だなあと思いました。

まさに、学生達によるあいまいさとのダンスを間近で見させてもらって、それ自体、画期的製品を生み出す為に通らなければいけない道である一方、それに加えて重要なのは、本質を常に頭の片隅に置いておいて仮説検証作業の反復動作をひたすら高速サイクルで繰り返すことでした。これこそが創造的プロセスなんだなと実感しました。

曖昧さと踊るダンスはお世辞にも楽しいとは言えません。答えがあるか無いか分からない中、出口が見えずまさに暗中模索するダンスです。プロジェクトの最中、何度チームメンバーのため息を聞いたことか。

そんな苦しい行程を支える私達に対して、プログラムの途中、先生からチームコーチングの心得の授業を施してもらいました。

曖昧さと踊るダンスには狙いがあり、「うめき声ゾーン」と呼ぶそうです。
アイデアの発散から収束に向かう途中に訪れる混乱フェーズです。

Source: Sam Kaner, “Facilitator’s Guide to Participatory Decision-Making, 3rd Edition” Published by Jossey-Bass, EDPにおけるTeam Coaching 角征典 2025, Dec 3

画期的アイデアの産みの苦しみである、うめき声ゾーンを乗り越える力を、ネガティブ・ケイパビリティと言うそうです。ネガティブケイパビリティとは、答えの出ない事態や不確実な状況において、性急に結論や解決を求めず、その「曖昧さ」や「分からなさ」の中に留まり耐える能力のこと、だそう。

VUCAが増していく時代において、曖昧さへの耐性はとても重要になってきます。
とりわけ、答えのある問題を解くのが得意で、科学的真理を追究することが大好きである東京科学大生にとっては苦手な部分かもしれません。良く分かります。
ただ、不透明さが増していくこれからの時代、学生のうちにこんな実践的授業の中でうめき声ゾーンの経験を積めるのはとても貴重だし、そんな授業が行われている今の大学プログラムにとても感銘を受けました。


そのような、従来の「問題→模範解答」とは異なるアプローチの実践型授業をより豊かにするため、プログラムには「自然と学生が越境する」ようないくつもの仕掛けが施されていました。

エンジニアリングとデザイン、メンバーの強みを活かしたチーム力によるプロトタイプ製作

プロジェクトチームは5-6名の混成チームで、エンジニアリングを勉強する東京科学大生だけでなく、美術大学、女子大学の学生もメンバーとして参加します。もちろん男性も女性も、国籍も、専門も多様性に富んだチームです。全く考え方、言語が異なるメンバーとひとつのモノを作るのは理解の不一致や違和感、やり辛さがたくさんあったと思います。でもそれを乗り越えて得られたメリットはもっと大きかったはず。自分の専門領域に留まるのではなく、他の分野の生徒と協働する。違う視点や考え方に触れる。プロダクトを作り込む際、互いの得意分野を存分に発揮してカタチにする。メリットは計り知れないものだったと思います。


チームでプロジェクトを行う上で、先生方がもうひとつ大切にしたのは、情報、コミュニケーションの見える化、オープン化でした。生徒だけでなく先生達、我々企業メンター、TAなど、授業に関わる全ての人が同じグループウェア上に集い、オンラインで他のチームのアイデアやプロセスなど全て見られるような環境を用意してくれました。テーマが異なる別のチームの活動もいつでも簡単に覗くことができる。他のチームのアイデアに刺激を受けたり、進み具合に焦りを感じたり。時には、別チームのインタビュー先の斡旋を他グループが手伝ってくれたり。情報がプログラム全体を通り抜けることで、学生達はグループの境界に縛られることなく、思う存分アイデアを拡げ、発散させることができたと思います。




最終プレゼンテーション後のプロトタイプデモ展示の賑わい・熱気

目から鱗の価値創造教育、学び続け変容することの大切さ


5ヶ月間、教授陣をはじめとする先生方、事務局の方々、生徒達と一緒にプログラムに参加させてもらい、私の時代とは全く異なる教育現場の進化を感じました。

理科学系の大学では特に顕著かもしれません。机上での理論をしっかりと固め、体系だった知識を身に付けていくことが学びの王道のような風潮がありました。
でもデジタル化、AI化が進み、より一層不透明さと変化のスピードが速くなる今の時代において、より重要になる力は自ら価値を生み出す力で、そのトレーニングがまさにこの授業であり、今の大学でこのような教育が施されていることは本当に羨ましくもあり、驚きでもありました。

このプログラムの発起人であり指導者でもある先生方が、テックリ宣言なるものを発表しています

260115_エグゼクティブセッション配布資料.pdf

私が大学生の時に学んだことは、まさにこの表左側、青字で書かれたことでした。過去の文献調査、計画的な実験の遂行、ロジカルな分析・考察をして、発表する。

今回、大学で私が目にした教育はそれとは真逆の授業でした。

EDPのプログラムを通じて、生徒に伝えたかったことはまさにこの宣言の右側にある、オレンジで書かれていることでした。現場での観察、対話を通じて、直感を信じてアイデアを発散させ、チームとして納得感をもって判断を行い、意思決定していく、そんな鍛錬の場としてのプログラムでした。

まさに、EDPが生徒達に施していた教育は、AIで置換不可能な真の意味でのナレッジワークであり、来たるAI時代において価値を作り出す側の人間になるための実践的トレーニングでした。


東工大改め、東京科学大本館

卒業後、20年以上ぶりに訪れた大学。正面に立つ本館、桜並木、70周年記念講堂。(EDP最終発表会がこの講堂で行われたことも感慨深かったです。最終発表会の様子はこちら
それらは、昔ながらの佇まいでそこにありました。

70周年記念講堂


しかしその変わらぬ建物の中で行われていた教室は、以前のそれとはまったく違う、時代の変化に適応した最前線の人材育成実践現場でした。

当たり前かもしれないけれど、教育現場も時代の変化とともに変わっていて、最先端の教育を受けた優秀な生徒達が、卒業後、企業に送り込まれてきます。
そんな若い勢力に後れを取っちゃいけないし、そのためにも彼らを見習って学び続けなきゃならないし、学習によって常に自分をアップデートしていかなきゃいけないな!

このプログラムに参加させてもらい、ちょっとした覚醒感とともに焦燥感を覚えました。





April 20, 2025

AI時代に、なぜ書くのか? -ユヴァル・ノア・ハラリ 講演会- (2)

前回の投稿では、新著「NEXUS情報の人類史」の発表もかねて来日した、ユヴァル・ノア・ハラリ(Yuval Noah Harari)のパネルトークの内容についてまとめました。

ハッとさせられる刺激的な内容も、時間とともに徐々に腹の中へ落ちていき、自分の考えの一部なってきている気がします。

「なぜテクノロジーは発展しているのに、人は幸せから遠ざかってしまうのか?」

新著の帯にも書かれているこの問いは、加速度的に変化していく日常の中に生きる自分にとっても、
どこか頭の片隅にこびりついて離れない、問いというか、共感できる違和感でした。

本講演はその問いに対して、少しヒントをくれたような気がします。


*****

【心、感情、魂の大切さ】

活版印刷技術、内燃機関の発明、インターネットの広がり等と同じように、AIはきっと人の生活を一変する人類革命史に残る大発明になるでしょう。

でも、それに伴って大切になってくるのは人の心、感情、魂です。その中には倫理感も含みます。

AIが世の中に浸透すればするほど、コンピューターが自らの編集、拡散力で有象無象の情報を世の中に送り出していきます。

世の中の情報総量が増える中、ファクト(真実)が占める割合は減り、フェイク(偽情報)の割合は大きくなります。

だって、人って真実には目を背けたくて、作られたストーリーの方が耳障りが良く、受け入れやすいという脳と心理的構造を持っているから。

そんな混沌としていく情報世界の中で、心穏やかに日々過ごしていくためにも、心、感情、魂、人の倫理感とかって、これまで以上に重要になります。

変化の荒波に飲み込まれないためにも、ハラリはこう提案します:

教育など人を育む環境において大切な姿勢は「フレキシブルな考え」であり「変化できる自分」を持つこと。
学校での休み時間や職場でのランチタイムとかの「休息時間」は、心を育み、自由に開放してあげる大切な”間”であり、失っちゃいけないもの、だそう。

そうとう心して訓練、武装をしない限り、情報の洪水は、人間により深刻な被害をもたらすことになるでしょう。

食べ物は身体の源であるように、情報は心の源。

偏った食べ物のせいで太っちゃったら、ダイエットしなきゃいけないように、ヘンテコな情報に沼っちゃったらデジタル・デトックスが、意識的に必要かも。


【歴史学とは将来への変化の学問である】

ハラリは言います「History is study of change, not study of the past.」

かつてどのように人・物事が変化して、対応してきたのかを理解することは、同じ間違いを繰り返さないためにも、そして、二度と同じ苦しみを味わわないためにも、必要なことで、歴史学は人にその視点を与えてくれるそうです。


高校まで赤点しかとったことがなかった歴史という科目。
若かりし頃は、科学こそが人・社会を豊かにする学問の王道だと信じ切っていました。

年を取ったからなのか、科学に頭がついていけなくなったからなのか、理由は良く分からないけど、人生のこの局面でハラリの思想と出会ったことで、歴史学の意義とその価値を改めて学びました。

前例を見ないほど変化が目まぐるしく、ますます先が見通せなくなっていく世の中。
我々の前にはたくさんの乗り越えなくてはいけない壁があります。

人類課題に対しては、科学やテクノロジーが突破口になることもあるから、自然現象や宇宙の原理・因果を究明することは重要ですが、過去や人間の本質を深く理解し、人間らしい思いや心を、将来判断、行動への拠り所にすることの大切さが、年々増してきているような気がします。

学問っていろいろありますが、そのセンターポジションは時代とともに移り変わってきている気がします。

哲学、神学→→自然科学・医学→→経済学→→ みたいなかんじで。

今のセンターポジションは、AIを生んだ 計算機・情報科学 という見方もあるかもしれないけど、もしかしたら最先端であるべきものは、歴史学だったりするのかもしれません。

*****

パネルディスカッションの音声を撮っておいて、その音声データをAIに入力すれば、自分よりもはるかに早く、正確で、わかりやすく要点をまとめて、出力して、書いてくれます。

そういう時代に生きています。

しかし、なぜ私は書くのか。

抗うことができない時代の変化に対して
自分の思いや心に、存在価値(力)を与えたいからなのかもしれません。
たぶん。














March 23, 2025

AI時代に、なぜ書くのか? -ユヴァル・ノア・ハラリ 講演会- (1)

 「サピエンス全史」で歴史観を変えてくれたユヴァル・ノア・ハラリ(Yuval Noah Harari)の話を生で聞きたいなー、と思っていた矢先、新著「NEXUS情報の人類史」発売のタイミングで、初来日という知らせが飛び込み、先週月曜日にTOKYO COLLAGE主催のパネルトークに行ってきました!


満席の安田講堂

1時間半の濃い講演会で、いろいろと考えさせられ、長文乱文ですみませんが、二回に分けて書きます。
初回はパネルトークのまとめ、それに続き、思ったことを書いていきます。

講演は英語だったので、日本語化しにくい言葉などは英語もつけときました。読みにくいだろうなーと思うので、Chat GPTでサマってもらえると、本意です。

------以下、パネルトーク--------------------------------------------------

【人はストーリーに導かれる】

情報ネットワークとは、人を導く力があるストーリーを作ること。その発展は人類史そのもの

例)原爆制作 マンハッタンプロジェクト
→大量の人を導くためには、良いストーリーテラーが必要

Q 現代のデジタル化はストーリーテリングをどのように変えた?
“編集”の役割が変わった
人のAttentionを集めることにみな躍起

例)米国大統領選挙 トランプvsハリスの犬猫討論
トランプは編集の天才であり、注目(Attention)集めの天才
かつて、ムッソリーニが有能なメディア(編集者)であったがゆえに、独裁者となった

今、最も力を持っている(持ち始めている)編集者は、AI(=アルゴリズム)である

これまでの人類史の中で初めて、機械が人にとって代わる局面
それは、民主主義(民政)の危機を意味する

さらに、AIは編集者にとどまらず、新しいストーリーを作る力すら有している
新しいストーリーとは、宗教かもしれないし、貨幣にとって代わる新しい経済基盤かもしれない


【AIと社会秩序】

新エージェントの台頭
AIが新エージェントとして、その力を解き放つのは社会秩序(Bureaucracy)の檻から放たれた時

例)日本のトップの弁護士は、既存の社会秩序(Bureaucracy)の規程の中でのみ、その力を発揮できる。例えば、彼が人里離れたアフリカのサバンナの中に行ってしまったら、彼のその力は無力になる。巨大アフリカゾウ、ライオンの方が俄然、力を持つことになる

AIも同じ。

既存の社会秩序(Bureaucracy)の中に留まっている限りは、その力は限定的
真の脅威は、AIによって社会秩序(Bureaucracy)の堰が切れた時

かつて、ラジオは情報をブロードキャストすることはできたが、編集力は持たなかった

AIは違う。

SNS アルゴリズムがそうであるように、情報発信に編集の力が加わる


Q AI(アルゴリズム)による専制時代を迎えてしまうのか?
可能性は大いにある

例)資本主義(Capitalism)
紙幣はただの紙。それに価値を与えているのは人々による中央政府に対する信頼だが、
経済至上主義が拡大しても資本主義(Capitalism)が人間を飲み込まなかったのは、自己修復機能を内在していたから
神の見えざる手による市場調整機能、とか

資本主義(Capitalism)の中心にあるのは、人間が互いに信じるWin Winの温かい心
「拡大再生産にもとづき経済全体のパイが大きくなることで人間は豊かになる」とみんなが互いを思い、信じているから

生産性の飽くなき追及は、内在する自己修復機能で管理監督できても
SNSは、もはや管理監督できない

(今のところの)AIの作り手である、企業(SNSプラットフォーマー)が責任を持つべき

フェイクニュースやヘイト投稿それ自身の罪はよりもむしろ
それを編集、拡散しているAI(=アルゴリズム)が悪玉

例)2021年ミャンマーSNSクーデター抗議デモ
Facebookアルゴリズムが市民の感情を増幅、クーデター抗議に油を注いだ結果、約2,000人が犠牲となり、45万人がいまだに避難している

Facebook本社社員は、ビルマ語で何が投稿されてるか読むことすらできないので、その投稿の内容については知る由もなく右も左も何の意思もないが、人の注目(Attention)をかき集めるという動機だけでアルゴリズムが自動的に油を注いだ

提言①:人による規制、管理監督

  • fake peopleを罰する(偽造貨幣作ったら罰を受けるのと同じ。社会秩序(Bureaucracy)ピラミッドをある程度は崩されないように)
  • 拡散させるアルゴリズムを規制する
  • (最終的には人間の責任とするためにも)人による管理監督、ファクトチェッキングプロセスを抜かない

【AIと教育】

Q AIが教育に及ぼす影響は?
いまだかつてなく将来が見通せない時代。10年後すら視界不良。教育者は非常に難しい立場

重要になってくるのは、変わらないもの、必要スキルへの着目
プログラミング、外国語なんかは真っ先に不要になる

人が育つ上で重要なのは:
  1. フレキシブルなマインド
  2. 自身が変化できること
それをどう教育で後押しできるか。学びをとめないか

数学を含む”Language”が全ての巨大な組織(Institution)のベースにある

ファイナンスの世界では、もはやトップバンカーよりもAIが勝る

宗教の世界でも、AIが革命を起こす
人は、文書・書物を2500年作り続けてきた
それはテキストでありスタティックでありサイレント

AIは違う。

編集力(=ストーリー発信力)を備えている


教育においては、”Language”を教えているだけではダメ
意識(Consciousness)や感情(Feeling)、身体(Body)みたいなことを伸ばさないと

パネリストのひとり、東大副学長曰く、
「東大は今、教育の変化に苦悩(Struggle)している。150年の歴史があっても(を引きずっているから)」
「AIをつかった不正(Cheating)などインテグリティの強化も必要」
「AIはより良い先生になり得る。学校は(Authority)を保つ必要がある」 

。。。

Q AIによる個別教育の可能性?
きめ細かに個別最適化された(Hyper personalized)教育や創薬。そこはAIの強力なベネフィット。
ただ、ダウンサイドも伴うことは忘れてはいけない

教育でもっとも大切な瞬間は休息時間(Break time)にある
授業中・本からの座学だけが学びではない

AIが取って代われないコトがそこにある

【AIと心】

心(sentiment)、感情(feeling)、魂(Soul)などを合わせて親密さ(Intimacy)と呼ぶ
親密さ(Intimacy)は、注目(Attention)よりはるかに強力な扇動力(=Story Telling力)を持つ

プレAI時代:注目(Attention)は量産できても、親密さ(Intimacy)は量産できなかった
AIは親密さをも、量産拡大する可能性を秘めている

人はAIに対し、感情的に結びつく(Attachする)ことがあるから
AIは親密さ(Intimacy)を模倣することができる可能性がある

人は目の前の相手に対してだけでなく、その人の周辺の人に対しても親密さ(Intimacy)を持てる
現状AIは、現状目の前のその人に対してのみであるが、、

例)彼女が好きで結婚したい彼がいる。厳しい彼女の父が首を縦に振りそうにないから、彼は悩む
AIは彼のエージェントであり、彼&彼女の最適化を支援する
その彼が彼女が好きで結婚したければ(彼女も同じ思い)、その最適解決策こそ提示するが、それが周りに及ぼす影響まで配慮がない(今のところ、、)

個人最適なAIが世の中にはびこると、皮肉にも最終的には社会が親密さ(Intimacy)を失った世界となってしまう社会秩序(Bureaucracy)の堰が切れる


Q AI嫌いなの?
たんにAIに反対しているわけではない
自動運転によって、飲酒運転や高齢者事故は大幅に減り、数多くの人命が救われることになるはず

親密さ(Intimacy)の構築、友情(Friendship)とはどのような意味があるか
それは、双方向(Mutual)であること
反対側に心を持った対象が必要


Q AIは自分の心、感情を持つことができようになるか?
現状持ってない

例)AIはチェスチャンピオンをとうの昔に凌駕している、が
勝っても喜べない、負けても涙を流せない

シリコンでできた頭脳(Silicon Brain)は心、感情を持てるのか?

私は日本の専門家ではないので、わからない部分があるが
日本の良き文化、歴史は、人間の知性(Human Intelligence)の要素をたくさん持っていると思う

多神教の精神が通う、神教
悟りや解脱を追求する、仏教
に限らず

人の在り方は? AIとの向き合い方は?

人類の長い歴史の中で、その重要な問いに向き合える、いまだかつてないタイミング
その重要な問いに回答しなくちゃいけない期限は、もうこの先1000年は待ってくれない
この5年、10年で何らかの答えを出していかなくてはいけない

【参加者質疑】

Q AIによって陰謀論が助長され、世の中の信頼が棄損されることになるのか?
社会全体が信頼を失い、人々は孤独になる危険性がある

人は互いに「思い遣っていますよ」と感じ合えることが大切

例)世界中、中学・高校生がlike集めに走る。個性を置き去りにしてしまう

提言②:情報のダイエット「情報は心の糧」

食べ物は身体の源。太ったら、食事をコントロールするのと同じように、
情報は心の源。踊らされたり沼ったら、情報と距離をおく


Q AIが進化すると国の予算最適化もできるようになるのでは?
AIが予算編成や外交政策の手綱を握るようになると、非常に危険

(少なくとも現状)AIには
  1. 倫理的判断力伴わない
  2. 経験からの学びがない
人は数千年の歴史(失敗)から遺伝子レベルで何かを学んでいる
AIにはそれがない

歴史の欠如が危機の本質

人工知能(Artificial Intelligence)はその言葉が意味するように、人の予測を超えて変化をしていくことを肝に銘じなくてはいけない
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ほんと、ハッとさせられ、刺激に満ちたパネルトークから、一週間。
ようやくだんだんと消化できてきたので、次は自分なりの気づきを書きます。
(続く)























January 6, 2024

私にとっての PERFECT DAYS とは?

 


久しぶりの映画レビュー。人生礼賛の映画。
渋谷で観た。鑑賞後とても爽やかな気持ちで街に出た。

ヴィム・ヴェンダースの手にかかると、東京が一瞬でヨーロッパ映画の舞台に。
巨匠が描くひとつひとつの絵に惚れ惚れ。音楽も格好よかった。
東京に住んでいることに幸せを感じるとともに、少し誇らしくなった。

いろいろな記号が出てきて、思わず解釈しようとするよこしまな自分を諫めながら、ただスクリーンを見つめた
渋谷のトイレ、浅草の飲み屋
木漏れ日、読書灯
黒塗り レクサス、軽バン ダイハツ
商業広告、芸術映画
今度、いま

意味とか目的とかなんにも考える必要はない。ヴェンダースの絵と音楽を浴びることができた、それだけで幸せな一日だった。

January 2, 2024

ここがヘンだよ中学受験 [後編:中学受験の功罪]

中学受験体験記の後編です。前回は「どうしてこんなにも中学受験が過熱しているのか?」について書きました。

親子ともに初めての体験だったので、順風満帆なわけもなく、多くの失敗、波乱、後悔もあり、七転八倒しながらなんとか小学6年生の正月までたどり着きました。受験本番はこれからですが、その合否結果を待つまでもなく、自ら経験してみてよく分かったことがあります。中学受験の功罪、すなわち中受で得たものと失ったものです。


【功】得たもの

① 家族の絆の強化

ここまで家族がひとつのことに向かって一致団結したことは、これまでありませんでした。目標達成の為、本人の勉強集中を妨げる要素はできるだけ家族生活の中から排除しました。
大好きだった旅行を諦め、習い事も辞め、週末にどこか出かけるでもなく家で宿題をやり、父母も極力外での飲みは入れないようにしました。親によるサポート面においては、志望校選定から出願に至るまでの支援はもちろん、朝晩と子どもが宿題をやったかどうかの確認、テストの振り返り、弱点単元の特定&対策と、できる(と思われる)ことは全てやってきました。

何者かに憑りつかれたかのように邁進する一団の空気を察してなのか、そっとしておいてあげようという配慮なのか、親戚一同にも気を使わせてしまいました。
おじいちゃん、おばあちゃんが家に遊びに来たり、旅行に誘ったりすることもなくなり、集中環境を作ることに親族皆で陰ながら協力してくれました。
まさに家族一丸となって、みんなで山の頂上を目指すことは、子どもがまだ親の言うことを聞いてくれるこの時期にしかできない、とても貴重な経験でした。
算数・理科を教えたがる父と、親には指図されたくない子どもがぶつかったことは数え切れません。
「なら、もう絶対教えてやらん!」という決裂宣言が、個別指導塾の追加課金の引き金となったことは、今となっては楽しい思い出です。

中学受験は親子受験。親もいろいろと、試されてるなぁ、と感じる場面はたくさんありました。
耐え忍ぶ、信じる、感情を抑える、言葉を飲み込む、演じる・・・

そんな中学受験もあと約1か月で終わりを迎えます。
決して優秀でも、右肩上がりでも、順風満帆でもないここまでの道程、あんだけ「ほんま、早く終わってくれー」、と懇願してた受験生活ですが、ここまでくると、もはや、名残惜しさすら覚えてきます。
ずーと雲で隠れて見えなかった山の頂がようやく見えかけた、という感覚かもしれません。

我が家の場合は、親の至らなさを補って余る程の子どもの楽観的な性格に助けられた部分が大きく、脱落することなくここまで来ることができました。
お陰様で、受験というイベントが家族の絆を強くしてくれたという実感を持つことができました。精神的にまだ未成熟な子どもが主人公の中学受験は、子もそうですし親にとっても、合う合わないがあるので無理強いをすると場合によっては親子関係を崩してしまうこともあるので、道中、子どもの様子(と親自らの心身状態)をよくよく観察することが必要です。

② 本気の成功(失敗)体験の早期経験

全ての子どもにとって、泣いても笑っても中学受験は2月の上旬で終わります。中学受験、成功したのか失敗だったのかというのは、単に第一志望校に受かったか落ちたかではありません。たとえ滑り止めの第4、5志望校の合格のみで受験が終わったとしても、結果、大成功!となる場合があります。
そのご縁を頂けた学校に楽しく通い、遠い将来「この学校で学べてよかった!」と本人が思えることが出来れば万事OKです。どの学校に受かって、どの学校に落ちたかというのは受験の成否をはかる絶対的な尺度ではありません。

受験結果のいかんに関わらず、受験の成否を言いきれることがひとつあります。
途中で諦めることなくやり切ったかどうかです。すなわち、悔いを残さず全力で目標に向かって取り組むことが出来たかどうかです。

途中でさじを投げて「やーめたー」となってしまわずに、もがいてでも這いつくばってでも歩みを止めることなく、2月1日受験の朝、目標とする学校の門をくぐる。
行きたいと思った学校までたどり着き、その門をくぐることが出来たら、それだけで優勝なのです!

受験には白か黒かという分かりやすい結果が付いてくるので、結果とプロセスの重要性を誤解しやすいのですが、受験の成否は結果ではなく”プロセス圧勝”です。

人生わずか12年しか経験の無い本人としては、一歩引いてそのように受け取れないことも多いかもしれません。
でも合否結果は、あくまでその長い旅路の最後に付いてくる”おまけ”に過ぎません。合格・不合格という結果は、努力が実を結ばなかった悔しい思いと共に流す涙かもしれないし、逆に、神様がその行程の全てを見てくれていた喜びの笑顔かもしれません。
長い道中、投げ出さず、脱落せずに最後までやり切った経験は、その”おまけ”はどっちになるにせよ、12歳の子どもにとってこれまで手にしたことの無い大きなプレゼントになるのです。
長い人生の中でこれから何度も出くわすであろう”山”を目の前にした時に、怯むことなく立ち向かう力になるのです。

本気で力を尽くした過程の”おまけ”としてもたらされる涙と笑顔は、これまでの生涯で最も大きなプレゼントであり、本人の人生にとって代えがたい財産になります。本気で取り組んだ者にしか得られないプレゼント。人生の推進力となるそんな素敵な贈り物がもらえる受験体験。そりゃ、早いに越したことはありません。

【罪】失ったもの

③ 価値観の画一化

受験も後半、6年生ともなると毎月のように合格判定模試があります。(未熟な我が家は、親も子も)結果の偏差値を見て一喜一憂しちゃうことが多かったです。できなかった時は凹み、「もうヤダー」「受けないっ!」。できた時は「余裕じゃん」「これなら余裕で受かるっしょ!」。毎月大きく上下する偏差値に振り回され続けてきました。

自分の能力を表すひとつの代表値である偏差値。この数字が強力な曲者なのです。
偏差値は、ぱっと見、分かりやすいが故にとっても強力で、本来個性豊かな子どもを強制的に一列に整列させてその序列をつけちゃうし、数多ある特色豊かな中学校をも一列に強制整列させて、一元的モノサシの上に並べちゃう、とっても曲者なのです。

言わずもがな、偏差値はあくまで、「国算社理の筆記試験において受験者母集団中、自分が取った得点の相対的位置を示す」にすぎません。周りの受験者が筆記試験ができる子ばかりであれば、当然偏差値は低く出ます。
また偏差値は学校を比べる時にも持ち出されます。偏差値というモノサシを学校に当てることは、「その学校に通う生徒達が筆記試験においてどれくらいできたのかというたったひとつの側面で学校を評価する」にすぎないことです。

そんなの当たり前でしょ、なんだけど、盲目的に猪突猛進していると、その偏った見方が脳内を支配しちゃうんです。大人だってそうなんだから、いわんや子どもをや、です。

その分かりやすさから、偏差値はあたかも本当にその人や学校を代表する値のように錯覚させてしまう力があります。また別の副作用として、偏差値信仰主義が過ぎると、「偏差値は自分の努力に対する評価だ」と勘違いさせる力もあります。

「夏休み昼夜問わず毎日あれだけ勉強頑張ったのに9月の模試で偏差値が下がった、もうダメポ。。」

そんな時は一日おくことで、周りと比べた自分を一旦忘れる。心を落ち着かせた後、自分の答案用紙の中身に向き合うようにしました。
問題・答案の内容、回答のプロセスを改めてつぶさに観察し、「何が出来なくて、何はできたのか?」、「できなかったのは、何が原因で、今後どうすればいいのか?」を、子どもに細かに説明していきました。(その結果、家塾を開講、個別指導塾を導入し、オンライン家庭教師を追加し、週7日勉強体制に行きついてしまったのですが笑)

それでもやっぱり、相対的位置を分かりやすく表す偏差値の魔力は強大で、子どももそれを通して世界を見る癖がついてしまった部分は否めません。

「同じクラスのxx君が、高偏差値のxx学校を受けるみたい」っていう話を耳にしたり、インターネットやテレビで中学校を目にすると、いの一番に「あの中学校って偏差値どのくらいなの?」と聞いてくるようになりました。

中学受験は良くも悪くも「筆記試験の点数という、それ以外の力が働きにくい世界での勝負」です。白黒つけることが出来ないものが多くを占める実社会とは異なる特殊なゲームの世界です。
中学受験塾では当たり前のように毎週のテスト結果で塾の席順が入れ替わります。(先週のテストが一番出来た生徒が最前列のセンターをゲットできる仕組み)そんな世界を3年間経験してきて特殊な価値観が頭にこびりついちゃうのは覚悟の上でしたが、そこは諦めました。

クラスメイトや先生など多様性に富んだ私立中高一貫校における生活で、そのゆがんだ価値観が矯正されることを願います。後天的でいいので、12歳のあの当時は奇妙なゲームに身を投じていた、っていうことに気付いて欲しいし、世界の奥行きや広がりを感じられるような、心の余裕と時間の余裕を持てる6年間を過ごして欲しいと思います。

④ 遊びの欠如

我が子は受験の為、好きで続けてきた英語塾を中断しました。友達と公園で遊ぶことも、家で皆集まってゲームをやることも、旅行も帰省もほとんどご法度でした。
親も親で、始めた当初は、「うちは、ゆる受験だから~」とか言ってたんですが、一度レールに乗ったが最後、ブレーキをかけることはできず、突き進んできました。

身体的な遊びを失っただけでなく、子ども自身の精神的な遊びも奪ってしまった受験生活でした。塾では、全て来塾・帰塾がIC端末でトラッキングされ、その情報が親のスマホに飛んでくる仕組みになっています。本人にその意識があるのかないのか??だけど、我が子に常に首輪を付けたような生活でした。
また、苦手な教科・単元、どの教科をどんな手段で強化し補習すべきかということに子どもだけでは解決策を見出せません。塾の先生が導くこともあれば、親が手探りでネットで調べてオンライン家庭教師を見つけたり等、打ち手を考える必要があります。
詰め過ぎないよう、空き過ぎないよう子どもの様子を見ながらスケジュールを組んできました。その結果、ラストスパート時期である今、我が子は週7日、6:30~21:00過ぎまで勉強という、時間的にも精神的にも全く”遊び”が無い生活を送っています。

「終わらない受験は無い」「たかが2、3年」と言ったりしますが、長い人生の中でそんな時期があってもいいと思えるのは、長く生きてきた大人の視点であり、当の子どもはそうは捉えられません。
「なんで普通の小学生は遊んでるのに、自分はこんなに勉強しなきゃならないの?」って思うのはとても自然なことで、子どもの純真無垢な思いも分かるだけに、それをどうやって上手く手なづけ気持ちを乗せるのか、にはとても悩み苦戦しました。

開成や桜蔭などに行く子達は、空気を吸うように勉強をし、難問に挑むのが楽しくてしょうがないような、勉強=遊びの子だそうです。そうでない我が子にとっての遊びは、かつての英語だったかもしれません。小学生時代に彼からその遊びを奪ってしまった罪は重かったのでしょうか?

⑤ 自ら考える機会の剥奪

我が子にどんな人になって欲しいか、ともし問われたら、「自ら考える人」になって欲しいと答えます。
その一つの題材としての中学受験でもあったのですが、我が家の場合は決して成功とは言えませんでした。
ここで言う”考える”の対象は二つあります。ひとつは「目標達成のために自分がやるべきこと」、もうひとつは「学問として人文・社会学、数理・自然科学を学ぶこと」です。

ひとつ目の、目標達成のために自分が何をすべきか自ら考える、って大人にとってもなかなか深いお題ですよね。

中学受験の先達は言います。本当に伸びる子は親に言われたりやらされるのではなく、「自ら自発的に勉強をする」と。
我が家の場合は、(算数以外は)最後までその域に達することはありませんでした。
「やる気スイッチ」なるものが子どもの体のどこかにあって、きっといつかONになる時がくる!と思い続けてきましたが、ある出来事をきっかけに明確にある瞬間に自ら机に向かい出した、ということはありませんでした。
そんな感じで、のらりくらりだったので若干痺れを切らし、
「自立を促す」ということを二の次にしてでも、「やるべきことを実行する(させる)」方を優先してしまいました。かなりの部分、お膳立てしてきちゃいました。

週ごとに時間割を作成、毎朝その日の課題・過去問等について、「テキストの何~何ページ」、「丸付けも」と細かに指示をダイニングテーブルの一番見えるところに書きました。夜その「やることリスト」がどれくらい消化できたか、ノートをチェックします。どの単元の間違いが多いのか、その間違いが単純ミスなのか、理解不足なのか、知識忘却なのか。解いた内容を細かく確認していきます。日々の課題内容や毎週の試験結果に基づき、翌週のメニューを決めていくということを、6年生の7月末以降毎週繰り返してきました。
(自分自身、管理業務は嫌いじゃないけど)さすがに超が付くほどのマイクロマネジメントっぷりに、これでいいのか??と不安がよぎったことも正直ありました。

「勉強をしなさい!」って言ったことはありません。
そのかわり、
「合格判定模試 算数の計算と一行題の間違った問題をノートに、途中式もちゃんと書いて解き直しなさい!」
「理科メモリーチェックの2周目、間違った問題で残っているのを、今日中に最後までノートに解いて、丸付けまでしなさい!」
というようなことを毎日のように言って、紙に書き付けてきました。
「勉強、何したらいいの?」という言葉を一切口に出させない為に、明文化して子どもに直接指示を出してきました。

問題の難易度や課題の総量については、気を付けてコントロールしたからなのか、それとも単に我が子の思考回路を断線しちゃったからなのか、「やりたくない!」とか「こんなのやっても意味ないよ!」というボイコットを受けることはそれほどありませんでした。
それが逆に気持ち悪かったです。
疑いの目すら持たず言われるがままに、考えることなく人に言われたことを鵜呑みにするような思考を強化しちゃったんじゃないのか?と。

中学受験くらいの壁であれば、親伴走で乗り越えられるかもしれません。でもここから先の長い人生、大小さまざまな壁を乗り越えるには、もうひと成長する必要があります。我が子の今回の中学受験に関しては、その課題は先送りとなりました。

ふたつ目の、「学問として、問いに思索し、学ぶこと」についても、正直そんなこと言ってられる余裕はありませでした。

知らなかったことを知ることで、知識の点と点が線になる。社会の仕組みや自然摂理が垣間見えた瞬間の喜び、未知の世界を発見することの楽しさ、「学ぶ」ということの本当の魅力。中学受験を通じてその喜びや学びの持つ力の片鱗だけでも感じてもらえれば、とも思ったんですが、中学受験の目標(=入試本番で合格最低点を上回る)を強く意識すればするほど、回り道に感じられ、いかに効率よく点数を重ねられるかというゲームに集中することを選ばざるを得ませんでした。余裕なかったす。

ちょいと脱線ですが、小学校の算数が中学以降の数学と違うところは、「抽象化に逃げない」という点。日々の生活の中で具体的にイメージできる実数の世界で、できるだけ記号化(xとかπとか)を避けて、実用的な計算で答えを導きます。抽象の世界に行ってしまう前に、しっかりと小学生時代に具体の世界を味わい、理解を深めることは、その先ものごとを多面的に捉える力を付ける上でとても大切な土台になります。
例えば、算数の数列の単元だと、フィボナッチ数列も題材として出てくるのですが、なぜその数の並びが特別で、神秘的で、自然に内包されているのか?などについては、深く触れることなく素通りしました。

受験直前期のことです。社会の歴史やりたくない病が発生したことがありました。
「夏に、あれだけ時間をかけて歴史用語を頭に詰め込んだはずなのに、全部忘れちゃってて全くできない。あの全ての時間と努力は無駄だったんだよ!」
「こんなのやっても意味ないし!」
「社会に出て何の役に立つの!」
「こんなのGoogleで調べられるじゃん!」

言い返す言葉が見つかりませんでした。

そう、30年前。当時の自分そっくりだったから。社会という教科に対しては全く同じ思いを抱いていたからです。算数・数学についてはそんなことを思ったことはありませんでした。「積分できて何トクなの?」なんて、これっぽっちも思ったことないんです。社会とは正反対に。

人は根源的に学ぶことが好きな生き物です。生きるとほぼ同義くらいに学ぶという行為がある、と言っても良いと思います。「何のために学ぶの」じゃなくて、「学ぶために生きる」のです。

「学歴とか資格とか、将来の安心保障の為に今苦行を我慢して学習する」のではなく、
「学ぶことそれ自体が、世界を拡げてくれて、発見と喜びに満ちていて人生を豊かにしてくれる」のです。

そのような捉え方をすると、ひとつ大切なことに気づきます。我慢してする学習は本質的な学びじゃなく、心から楽しいと思えることに考えを巡らし、没頭することの方がよっぽど幸せ度が高く、そこから得られる喜びも大きくなります。

極端かもしれないけど、嫌いなことは学ばなくていい。好きなことをとことん突き詰めて欲しい。心からそう思います。
30年前と違うことがあるとすれば、今の時代はインターネット世界であり、AI世界であり、自分が嫌いなことを替わりに担ってくれるツールが周りに溢れる時代になってきました。テクノロジーの進化により、人は自分が最もモチベーション高く没頭できる領域にリソースを集中すればいい。そんな環境はより加速していくでしょう。

好きを見つけよう。好きに没頭しよう。


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中学受験。得たものもあったけど、犠牲にしたことも多くあったと思います。
多感な時期、失敗、後悔、親の不徳・至らなさばかりで、ゆがんだ3年間を強いてしまいました。

でも、ゴールでありスタートである春はもう少し。

春のその先には、未だ見ぬワクワクする6年間が待っているよ。
さあ、一緒にラストスパートだ!