November 13, 2011

蝉は八日目にして一筋の光を見た


気付けば初の邦画レビュー。


観賞後の映画に対する感想がえらく発散し、まとまりをみないのは、この作品が単に誘拐犯の逮捕劇を描いたに留まらず、広く深く人間の根源的な何かを観る者に訴えかけたからだろう。

人生の今、この作品と出会えて本当に良かったと思う。

/女、既婚/未婚、子持ち/子無し、子育て中/子離れ後。観る人の数だけ解釈が存在する、考えさせられる映画であった。

(以降、多少ネタばれが含まれるので要注意!)


このストーリーとなった事象を新聞が取りあげたとするなら、せいぜい
「不倫相手の女が、不倫相手の子供を連れ去り、4年間育てた末、逮捕された。」と、
単なるひとつの不倫相手の逆恨み誘拐事件として片付けられてしまうだろう。
もちろん希和子(誘拐した娘の夫の不倫相手であり、その不倫相手との間にできた子供を堕胎させられた女)は誘拐犯としての「悪」、がおこした「事件」と読み取られる文脈で報じられることになるのである。


はたして、そうだろうか?
これは事件なのだろうか?
希和子は犯罪者なのだろうか?
本当に裁かれるべきは誰・何だろうか?


希和子の薫(誘拐した女の子に希和子がつけた名前)に対する愛それ自体は、決して裁かれるものではないと思う。


愛に善し悪しはない。


人がだれかを思う気持ち、愛は、自発的で、純粋で、慈善的で、人が人であり得る限り存在し続けるものであり、イノセントで空気のようなもの。ただ、人によってその量(愛がとめどなく湧いてくる人)、そのコントロール(愛の表現方法が極度に利己的な人)に個性がある。人の数だけ愛し方がある。
愛のアウトプットとしての行動(愛情表現)が法律に抵触し「罪」になる事はあるが、愛それ自体に、良い悪い(白 or 黒)は無い。無色透明である。

子供にとって、巻き戻すことのできない幼少の時間。誘拐された4年は、はたして良かったことなのか、悪かったことなのか?喜ぶべきことなのか悲しむべきことなのか?


ここに答えはない。


希和子にとっては、とめどない愛情を惜しみなく注ぐことのできた4年間。
娘の産みの母にとっては、取り返せない幼少期を剥奪された空白の4年間。
不倫相手の夫にとっては、自分の不倫がきっかけで娘だけでなく父権をも失った4年間。
そして、薫にとっては、産みの母と引き離されるも、希和子に無量の愛情を注ぎ続けられた4年間。
恵理菜にとっては、忘れ去りたい記憶として今も心に影を落とす4年間。

唯一つ言えることは、その事象と4年間という時間は、その本人だけでなくその関係者その後の生き方に大きな影響を及ぼしたということ。 

「三つ子の魂百まで」とはよく言ったもので、やがて恵理菜が大人となった時、その影響の大きさを知ることになるのである。

事象は繰り返される。不倫、夫に望まれない子の妊娠。

それは、夫の不倫相手、希和子を「がらんどう」と罵倒した、産みの母に対する精いっぱいの抵抗だったのか、
血のつながりこそないものの、育ての母として希和子から得た愛情の賜物だったのか。
恵理菜は決して逃げなかった、父親不在でも、母になることを決意するのである。
(母と父の違いなのか!?母性という言葉はあっても父性という言葉が一般的でない理由が少しだけ分かった気がした。)

誘拐から解放されたその後の人生において、ずっと目をつむって来た希和子との4年間。でもその記憶は決して消し去ることが出来ない程、強く、深いところで恵理菜を形作っていた。この物語を嬉しく思うのは、母子の関係は法の下引き裂かれるものの、注がれた愛情は脈々と子に受け継がれ、ご褒美として必ず報いるのだという事を描いてくれた点である。恵理菜は希和子を拒絶するのではなく、自ら母となる強い意志を持って、希和子の愛情表現を最後に受け入れたのである。

その結末をもって、これは単なる事件ではなく、母子間の母性の遺伝としての事象にまで昇華したのである。

八日目の蝉は、他の蝉よりも孤独で、生きることの苦悩は多いが、
その1日の余命で、本当に大切な、人生にとっての美しい何かに気付くことが出来たのである。



幼い子を持つ母、片親で育った子、不倫中の夫・女性、が観なくてはいけないのはもちろんのこと、他にも、愛情を受けて育った全ての人に観てほしい映画。
昔の産めよ、育てよと(誤解を恐れずに言わせてもらえば)家族を量産してきた祖母・祖父の時から時代は変わり、子供を切望しても恵まれない家族が多いこの世の中。親はどのように子と向き合っていくべきかについて、この“犯罪者”と“被害者”は多くのことを教えてくれた気がする。


何十年後になるかわからないが、母性の遺伝が確認できる頃に、今度は、小説を読んでみたいと思う。


補足:
愛は、親から子へ不可避に遺伝する(そして、無意識に親に似てくる)ものであるが、以下にレバノン出身の詩人であるハリール・ジブラーンの詩を引用することで、「子」は立派に「個」であることも付け加えたい。


『子どもについて』

赤ん坊を抱いたひとりの女が言った。 
どうぞ子どもたちの話をしてください。 
それで彼は言った。 

あなたがたの子どもたちは 
あなたがたのものではない。 
彼らはいのちそのものの 
あこがれの息子や娘である。 

彼らはあなたがたを通して生まれてくるけれども 
あなたがたから生じたものではない、 
彼らはあなたがたと共にあるけれども 
あなたがたの所有物ではない。 

あなたがたは彼らに愛情を与えうるが、 
あなたがたの考えを与えることはできない、 
なぜなら彼らは自分自身の考えを持っているから。 

あなたがたは彼らのからだを宿すことはできるが 
彼らの魂を宿すことはできない、 
なぜなら彼らの魂は明日の家に住んでおり、 
あなたがたはその家を夢にさえ訪れられないから。 

あなたがたは彼らのようになろうと努めうるが、 
彼らに自分のようにならせようとしてはならない。 
なぜなら命はうしろへ退くことはなく 
いつまでも昨日のところに 
うろうろ ぐずぐず してはいないのだ。 

あなたがたは弓のようなもの、 
その弓からあなたがたの子どもたちは 
生きた矢のように射られて、前へ放たれる。 
射る者は永遠の道の上に的をみさだめて 
力いっぱいあなたがたの身をしなわせ 
その矢が速く遠くとび行くように力をつくす。 

射る者の手によって 
身をしなわせられるのをよろこびなさい。 
射る者はとび行く矢を愛するののと同じように 
じっとしている弓をも愛しているのだから。 

神谷美恵子・訳(角川文庫)


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2011年 日本
原作:角田光代
監督:成島出
出演:井上真央(薫・恵理菜)、永作博美(希和子)

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