前回の投稿では、新著「NEXUS情報の人類史」の発表もかねて来日した、ユヴァル・ノア・ハラリ(Yuval Noah Harari)のパネルトークの内容についてまとめました。
ハッとさせられる刺激的な内容も、時間とともに徐々に腹の中へ落ちていき、自分の考えの一部なってきている気がします。
「なぜテクノロジーは発展しているのに、人は幸せから遠ざかってしまうのか?」
新著の帯にも書かれているこの問いは、加速度的に変化していく日常の中に生きる自分にとっても、
どこか頭の片隅にこびりついて離れない、問いというか、共感できる違和感でした。
本講演はその問いに対して、少しヒントをくれたような気がします。
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【心、感情、魂の大切さ】
活版印刷技術、内燃機関の発明、インターネットの広がり等と同じように、AIはきっと人の生活を一変する人類革命史に残る大発明になるでしょう。
でも、それに伴って大切になってくるのは人の心、感情、魂です。その中には倫理感も含みます。
AIが世の中に浸透すればするほど、コンピューターが自らの編集、拡散力で有象無象の情報を世の中に送り出していきます。
世の中の情報総量が増える中、ファクト(真実)が占める割合は減り、フェイク(偽情報)の割合は大きくなります。
だって、人って真実には目を背けたくて、作られたストーリーの方が耳障りが良く、受け入れやすいという脳と心理的構造を持っているから。
そんな混沌としていく情報世界の中で、心穏やかに日々過ごしていくためにも、心、感情、魂、人の倫理感とかって、これまで以上に重要になります。
変化の荒波に飲み込まれないためにも、ハラリはこう提案します:
教育など人を育む環境において大切な姿勢は「フレキシブルな考え」であり「変化できる自分」を持つこと。
学校での休み時間や職場でのランチタイムとかの「休息時間」は、心を育み、自由に開放してあげる大切な”間”であり、失っちゃいけないもの、だそう。
そうとう心して訓練、武装をしない限り、情報の洪水は、人間により深刻な被害をもたらすことになるでしょう。
食べ物は身体の源であるように、情報は心の源。
偏った食べ物のせいで太っちゃったら、ダイエットしなきゃいけないように、ヘンテコな情報に沼っちゃったらデジタル・デトックスが、意識的に必要かも。
【歴史学とは将来への変化の学問である】
ハラリは言います「History is study of change, not study of the past.」
かつてどのように人・物事が変化して、対応してきたのかを理解することは、同じ間違いを繰り返さないためにも、そして、二度と同じ苦しみを味わわないためにも、必要なことで、歴史学は人にその視点を与えてくれるそうです。
高校まで赤点しかとったことがなかった歴史という科目。
若かりし頃は、科学こそが人・社会を豊かにする学問の王道だと信じ切っていました。
年を取ったからなのか、科学に頭がついていけなくなったからなのか、理由は良く分からないけど、人生のこの局面でハラリの思想と出会ったことで、歴史学の意義とその価値を改めて学びました。
前例を見ないほど変化が目まぐるしく、ますます先が見通せなくなっていく世の中。
我々の前にはたくさんの乗り越えなくてはいけない壁があります。
人類課題に対しては、科学やテクノロジーが突破口になることもあるから、自然現象や宇宙の原理・因果を究明することは重要ですが、過去や人間の本質を深く理解し、人間らしい思いや心を、将来判断、行動への拠り所にすることの大切さが、年々増してきているような気がします。
学問っていろいろありますが、そのセンターポジションは時代とともに移り変わってきている気がします。
哲学、神学→→自然科学・医学→→経済学→→ みたいなかんじで。
今のセンターポジションは、AIを生んだ 計算機・情報科学 という見方もあるかもしれないけど、もしかしたら最先端であるべきものは、歴史学だったりするのかもしれません。
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パネルディスカッションの音声を撮っておいて、その音声データをAIに入力すれば、自分よりもはるかに早く、正確で、わかりやすく要点をまとめて、出力して、書いてくれます。
そういう時代に生きています。
しかし、なぜ私は書くのか。
抗うことができない時代の変化に対して
自分の思いや心に、存在価値(力)を与えたいからなのかもしれません。
たぶん。
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